「今どき紫川紀行」連載スタート

西日本新聞で「今どき紫川紀行」の連載がスタートした。
北九州市の中心部を流れる紫川を、1年間にわたって紹介していく企画だ。
淡彩画家・西川幸夫さんが絵を描き、私が文章を添えている。
4月から月2回、第1・3火曜にカラーで掲載中。

紫川上流。春吉の眼鏡橋

西川幸夫さんは、1939年北九州市生まれ。
新日本製鐵を退職後、絵の道を歩み、「北九州101景」「清張紀行101景」など13冊の画集を発行。鉛筆などの下書きを生かし、スケッチの魅力を引き出す「淡彩画」を描き、毎年数回の個展を開催している。
平成25年には第1回北九州市民文化功労章を受章し、絵画教室の先生としてもご活躍。非常に豊富な実績を持っている方である。
西川幸夫公式ホームページ 日韓交流 (nishikawa-yukio.com)

なぜ、こんな大ベテランの先生と、まったく実績も絵心もない私が、僭越ながらタッグを組ませていただくことになったのか。

2021年の夏、西川先生と親しい広告代理店のディレクターさんから、「紫川(むらさきがわ)を紹介する文章を書いてほしい」と言われ、3人でお会いしたのがきっかけだ。
「紫川ですか!?」
紫川流域の豊かな自然、歴史、文化を伝える画集の制作を考えており、そこに掲載する文章をお願いしたいという相談だった。
他の題材だったら、自分よりも適任の方がいると考えて遠慮し、お断りしていたと思う。
それから半年ほど経って具体的な動きがあり、まずは新聞で連載する流れになった。

実は20年前、夫の地元・北九州市に転居した頃、私はこの街にうまく馴染めなかった。
7年にわたる海外生活から帰国し、初めての西日本、九州、福岡県、北九州市。
言葉はわかるのに、不思議なことや理解できないことが多かった。
家庭環境も人間関係も大きく変わり、人生で初めて孤立無援、四面楚歌という言葉が浮かんだ。地元の岩手から東京に出たときも、夫の転勤で台湾、ドイツに住んだときも、味わったことのないアウェー感だった。

それでも、街の中心を流れる紫川を見て、ここで暮らしていこうと思ったのだ。街の喧騒や人の苛立ちとはお構いなく、清浄なスペースを保ち、悠々と在る姿に励まされた。
「紫川」という素敵な名前にも惹かれ、川がある街なら何とかやっていける気がした。

紫川下流。黒い建物は北九州市庁舎

私は川が大好きだ。海よりも川派。
盛岡市の中津川沿いで、生まれ育ったからだろう。
子どものときは川原で遊び、いつも部屋から川を眺め、せせらぎを聴きながら眠りについた。
東京でも川の近くに住まいを選んだ。
川を眺めていると心が落ち着くし、水が絶えず流れ、開放感のある空間が気持ちいい。
あの抜け感というか、空間を広げて通して与えてつないでいく感じが、たまらなく好きだ。

そんなこんなで、私の川好きなど知る由もないディレクターさんの紹介により、「今どき紫川紀行」の文章を担当するようになった。
いつもの如く、ライターの仕事は、まったく知らないことを調べるところから始まる。
紫川に関するネット情報をあさり、図書館で文献を探し、水環境館で話を伺い、川の起点から上流~下流まで巡った。

私は車を運転できないので、友人の磯部久子さんと一緒に回った。ありがとうございました!
起点を訪ねて頂吉(かぐめよし)に着いた途端、桜の花びらが舞い散り、キラキラと輝いた美しい光景が忘れられない。
山から歓迎されたようで、うれしかった。

紫川の起点。山の神川(上)と吉原川(左)の合流地点から、紫川が始まる

楽しいながらも一番大変だったのは、1年分の企画案作成。
新聞社からは、「新聞なので、”今”を伝える内容にしたい」という要望があり、4月は桜、5月はこいのぼり、6月はホタルなど、できるだけ旬の紫川を伝えられる場所と内容を考えた。水環境館の館長さんのアドバイスのお陰で、何とか企画がまとまった。
原稿は、新聞社の編集部長さんのチェックを経て完成する。的確なご指摘には、毎回頭が下がる。

西川先生は80代。重篤な病気を抱えながらも、命を燃やして絵を描き続けている。
そうまでして伝えたい魅力が、紫川にはあるのだ。

福智山から生まれた紫川は、ます渕ダムに流れ込み、田園地帯や市街地を通って、響灘(ひびきなだ)まで22.4㎞の旅をする。
春夏秋冬、紫川を彩るさまざまな景色、清々しく大らかな姿を媒介者として伝えていきたい。
偉大なる恵みに、心からの感謝を込めて。

菅生(すがお)の滝。この水は、滝の口川を通って紫川に合流する